〜餓死者1000万人が噂された戦後〜
(日本人すべてが闇商人)
また8月15日がやってきました。
言うまでもなく、1945年の第二次大戦終了の日で、日本が負けた日です。
日本が負けたと言うより、負けたことを天皇が言葉で日本国民に伝えた日というほうが正確でしょう。
ところでこの8月15日もかなり昔のことになりました。
65年前、昭和20年のことです。
65年前小学校以上でしたら、その日の記憶もあるでしょうが、それでもその人たちも70歳を越えています。記憶が薄れる年齢です。
また遠い昔の話、思い出も途切れ途切れになるでしょうし、まして8月15日に、まだ幼児か生を受けていない人たちには、思い出もなく感慨もないでしょう。
「8月15日は何の日ですか?」と若い人たちに尋ねても「それって何の日?お盆の日でしょう」と敗戦を知らない若者が多いのではないでしょうか。
私は当時13歳、中学2年生で勤労動員の学徒として、ある軍需工場で働いていました。
思春期の中学生の脳裏には、8月15日の衝撃は忘れることが出来ません。
この鮮明な記憶は、8月15日だけでなく、昭和20年をはさんだ前後の数年間、昭和19年から戦後の25年ごろまでが、妙に思い出されます。
それだけ私の年齢が12歳から18歳ぐらいまでの期間、近代日本は今までに経験したことのない激動の中にあり、私の脳細胞はその頃のことを、彫刻刀で刻んだように、いつまでも風化しない思い出としています。
記録と記憶のひだが若いだけに深かったのでしょう。
その頃の人々の生活は、壮絶な生存をかけた競争でした。
敗戦になるまでは戦いに勝ち抜こうと、日本の国と日本国民の生死をかけた戦いでした。
それが急展開した戦後は、自分の生命をかけた、生きるための戦いが始まりました。
それは、食べることと、食糧を確保することの争奪戦で、世の中を無法とし、社会は騒然とし、秩序も条理も礼節も吹っ飛んだ現象となり、1億国民は生活のため全てが闇商人となり、そのなかで私たち中学生も生存のために金を稼ぎ、物資をどう調達するかに余念がなかった時代でした。
昭和20年までの戦争中は「欲しがりません勝つまでは」「ないないないは、工夫が足りない」などの標語のもとに、我慢の連続だった国民も、国家統制と官憲の重圧から逃れた途端、国家より自分の生活が大事なことに気づきました。
気づくというより、国の言うとおりに順法精神でいては、食っていけない、生きていけない、餓死してしまう経済情勢と食糧事情でした。
あらゆる物資が不足した中で、ことに食料の不足は目を覆うばかりでした。
焦土と化した焼け野原の東京や横浜には、家も寝るところもない浮浪者や戦災孤児が屯し、今日は10人、明日は5人と栄養失調で亡くなっていた現実がありました。
それほど日本国の食糧は底をついていたのです。
その原因は、昭和20年、21年と凶作で生産量が少なかった、そのうえ食糧供給の満州、朝鮮、台湾を失ない、さらに戦争終結でそれまで外地に出兵駐留していた兵隊、海外で生活あるいは仕事をしていた一般人が、続々日本に帰還したのですから、一層に食糧は枯渇してしまいました。
昭和20年秋に発足した、幤原(ひではら)内閣の大蔵大臣渋沢敬三は、このままにしていたら餓死者は1000万人以上になると、報道関係に発表し、その頃の進駐軍マッカーサー司令部を驚かせさせました。
実際はそのような事態までにはなりませんでしたが、この話があってからやがてアメリカから食糧援助の手が差し伸べられたのです。
それまでは、一人当たり一日1050カロリーの生きていく最低の食料を、配給食料として政府は各戸に配る計画でしたが、それも遅配欠配の連続でした。
終戦直後の日本人の病気の統計の中に、糖尿病や痛風などがありません。
ましてメタボリック症候群などは探しても見つからなかった時代でした。
あるのは栄養失調症という細胞不活性症候群と麻薬ヒロポン中毒、あとは性病の蔓延でした。
勿論栄養不足からくる肺結核も多く見られました。
その頃の食糧供給は、戦時中に出来た「食糧管理法」がありまして、国内で生産した主食(米、麦など穀類)は政府に供出し、政府が頭数を計算し、各戸に配分する仕組みになっていました。
これは計画経済、統制経済の象徴で、米に限らず衣類から生活用品、マッチの類まで切符制でした。
ところが戦後、物資がないため猛烈なインフレ状態になり、昨日10円で買えたものが、今日は30円出なければ買えないというようなハイパーインフレでした。
それだから、食糧を生産している農家も、安い供出米をいま出荷するより、貯蔵している間に2倍3倍と価値が上がる米をおいそれと市場には出しません。
それも食糧不足の原因のひとつにあげられます。
統制経済は政府が物の価格を物価統制法と言う法律で決定しますが、それに違反し正規の市場を通さず、勝手に自分たちで値段を決めて売買する市場を「闇市(ヤミイチ)」と呼んでいましたが、この闇市が全国の繁華街に多数出現したのが、戦後経済の特色でした。
そこへ物資を届ける人たちを、闇商人と言い、届けた物資が米でしたら、闇米となります。
この闇商人も闇米も法律違反の犯罪で、運び屋も売った人も、買った人も罪に問われました。
しかし、一般市民はこの闇米や闇物資を求めなければ生きていけない状態で、それ故全国民1億人全てが闇物資に関係する、犯罪者だったのです。
中学生だった私も、近所の農家から若干安く米を仕入れ、それを学校で仲間に売って小遣いを稼いだ経験があり、また海岸近くの友人の家が電気分解で塩を製造していたのを知り、それを分けてもらい、近所の農家に売り儲けを生みました。
昭和21年と22年の夏休み、アイスキャンディー売りをやって、これはかなりの稼ぎになりました。中学の3年生と4年生のときです。
そのように中学生までが闇商人ですから、大人たちの世界は生きていくために、闇物資争奪戦になったのです。
「買出し列車」と言う言葉がありました。
都市と田舎を結ぶ列車には、農家を何軒も回り、ようように分けてもらった、米や芋をリュックサックいっぱいに詰め込み、家で待つ幼い子供の喜ぶ顔を考えながら運んでたお母さんなどもいました。
これらの物資は先ほど申した闇物資で闇米です。食糧管理法に抵触します。
走行途中停車を命じられ、特別な経済警察官が列車に乗り込み、食管法違反としてこれらの闇物資を摘発没収、中に悪質な担ぎ家には留置所入りという、きわめて厳格な処分がなされたのです。
子供たちのために、なけなしの自分の着物と交換した、貴重な米を取り上げられた、お母さんの悲しみはそれは深いものでした。
その頃、このような物価統制に違反した人を裁く裁判所判事が、闇米を食べていては闇米販売で捕まえた人を裁けないと、配給の食糧だけで我慢し、ついに栄養失調で亡くなるという報道が新聞に掲載され、法に準じた崇高の裁判官とたたえられながら、この法律は人を救うものであって、それを遵守したために命を落とす悲劇に、いったい日本の法秩序はどうなっているのかとの、議論が怫然として湧き上がりました。
こんな矛盾だらけの日本でしたし、この闇物資が闇米が人々を生きながらえさせたのです。
実際闇米を取り締まる警察官も、闇の食料を食べなければ生きていけない、矛盾がありました。
それにしても貨幣価値はあっという間に下落し、物質だけが信用される経済社会は、近代国家ではありません。
ちなみにある資料に、1945年の敗戦直後の公定価格と闇価格の参考数字が載っていましたので、紹介しましょう。
米1升(1.8リットル、約1キロ)
公定価格 53銭(0.53円)
闇価格 70円 132倍
サツマ芋 1貫目(3.75キロ)
公定価格 1円20銭
闇価格 50円 42倍
砂糖 1貫目(3.75キロ)
公定価格 3円75銭
闇価格 1000円 266倍
たばこ金鵄(きんし)1箱(10本)
公定価格 0.35円
闇価格 13円 4.5倍
この中で砂糖はとにかく貴重品で、甘いものに飢えていた人々の羨望の的でした。
余談ですが、昭和21年、22年ごろ、米の代わりにざら目砂糖が配給され、私の家でもおやつ代わりに「かるめ焼き」にして食べた記憶があります。
この食糧危機は25年ぐらいまでつづき、代用食と言う言葉も生まれました。
サツマ芋は代用食の代表ですが、すいとん、こなかき、雑穀、ジャガイモ、かぼちゃ、大豆油絞りかす粉末、芋のつる、野草、何でもかんでも口に入るもの、でんぷん質のものは代用食になりました。
すいとんはご存知と思いますが、いつか大分県に旅行したとき「だご汁」なるすいとんが出まして、懐かしく思いましたが、終戦直後のすいとんはだし汁もなく、野菜と一緒に醤油で味付けした、うどん粉の塊で味気ないものでした。
こなかきはもっと単純で、薄く水で延ばしたうどん粉を糊のように煮たもので、丁度小麦粉の重湯みたいなもので塩味でした。
我が家では小麦粉にフスマ(小麦の外皮)や米ぬかを入れ、水で溶いて、フライパンで焼いたお焼きを食べましたし、サツマイモをスライスし乾燥させ、それを粉にして団子にし、蒸かしてたべました。
チョコレート色のねっとりした感触のお饅頭で、もっとも中には小豆の餡も肉の餡も入らない、無味乾燥な食べ物で「またイモ団子かよ」と辟易(へきえき)したものでした。
まだ私は恵まれたほうで、終戦の直後、勤め人だった父親が食糧難を見越し、小作人に貸していた農地の一部を取り戻し、百姓を始めていましたので、なんとか自給が出来ましが、しかし肉、魚類はほとんど手に入らない状態でした。
こんな粗末な、栄養価のない食事で我慢させられた私たち昭和一桁から、昭和10年代生まれの人たちは、体格が貧弱で血管が細いと言われます。
病院で採血時看護婦泣かせの血管です(私だけですかね)。
いずれにしろ、終戦直後から数年、食糧だけでなく経済全体も栄養失調日本でした、それがようやく食糧の出回りが潤沢になり始めたのは昭和25年、1950年ごろからです。
私は昭和25年、池袋にある大学に入学しましたが、駅の前から学校までの間、闇市の名残がまだ残っていましたし、学校近所の食堂は食糧管理法に定められた政府が発行した「外食券」が必要でした。
地方からから上京し入学した学生には不便この上なく、腹がすいても外食券がなければ食べられません、そんな時重宝したのが闇市の一膳飯屋、外食券食堂より大盛りで値段もそこそこでした。
とにかく混沌とした中で日本人はひもじさに耐え、敗戦の屈辱に耐え、占領下のやるせなさに我慢してきました。
そしていま歴史は流れ、いつの間にか飽食の国日本になっています。
ただしその飽食している食糧は日本産ではありません。
自給率40%と言われる日本、終戦直前直後と同じように、貿易を絶たれた孤立日本になったとしたら、あの終戦直後の食糧危機と同じような状態になったとしたら、果たして1億2千万人の日本人はどうなるのでしょう。
考えさせられる65年目の終戦記念日です。