昔のリサイクルの思い出

〜「モッタイナイよ、まだ使えるよ」〜
(自然に身についていたリサイクル文化)

私の育ったふるさとは、横浜市に昭和14年に編入されましたが、それまでは鎌倉郡中川村という純粋な農村地帯でした。

その頃の農村は、自給自足が当たり前で、農機具から生活用品、衣類から履物までとても大事にあつかい、何回も何回も手入れをしたり、修繕して使用する、「モッタイナイまだ使える」が日常会話の時代でした。

私は昭和12年の日中戦争(支那事変)始まりに小学校に入学、昭和16年12月8日に太平洋戦争(大東亜戦争)に突入したときは、国民学校(小学校)4年生で、小国民と呼ばれやがては軍人になる予備軍みたいなものでした。

全ての戦争が終わったのが中学2年生で、この間約8年が第二次世界大戦でした。

丁度戦争真っ盛りの時代、小学生から中学初期までの生活を送り、今考えると特殊な体験をしたことになります。

小国民とか軍国少年とか呼ばれ、とにかく国のために尽くしなさいと、働き手のお父さんが出征軍人でいない農家の手伝いにも行かされました。

それと直接的な尽忠報国は、軍需品の材料にするくず鉄を拾い集めろとか、古い紙くずを探して来い、などと勤労奉仕を先生から強要されたことです。

今で言う物資のリサイクルに、借り出されていたのです。

それと言うのも、天然資源の乏しい日本国、まして膨大な戦費がかかる世界大戦、労働力不足と物資不足は私たち子供でもひしひしと感じていました。

「欲しがりません勝つまでは」とか「無い無いは工夫が足り無い」の標語に代表されるよう、物欲を抑制する政策が、政府から発令された時代です。

食料から衣類、生活用品まで配給制、家族構成人頭別に配給切符が必要なだけ渡され、その切符が無ければ何一つ買えない時代となっていました。

その頃の農村は貧しく、私の同級生たちの中には、つぎはぎの和服や洋服で登校していた子供も何人もいました。

ほとんどが兄弟、姉妹のお古で、破れたところを繕い、ボロボロになるまで着尽くす、家庭内リサイクルが徹底していました。

履物は下駄かわら草履、夏は素足で冬は足袋をはいて、登校に片道1里(4キロ)の道をぺたぺたと歩き、わら草履などは磨り減って履けなくなり、途中で捨て去り、はだしで家まで帰っていた子供もいました。

私は幸い兄のお古の運動靴などいくつか持っていましたので、わら草履登校の経験はありませんが、下駄履きで通ったことは記憶にあります。

いずれにしろわら草履は、大切な履物で実用雑貨で、その材料は稲わらです。

この稲わらは農村生活にとっては貴重な素材で、わら縄、むしろござ、米俵、かます、わら沓、わらじ、畳の芯、数えたらまだまだ沢山、稲わらの文化が根付いていました。

このわら利用の製品は、究極のリサイクル製品で、使えなくなれば燃料となり、その灰は肥料となっていました。

私たち子供も、学校で荒縄づくりと、それを芯にしてわら草履を実習させられました。

今の子供には想像できないでしょうが、工作の授業の一環で、農村の実用品ですぐ役に立つ、わら製品をテーマにしようと言うことだったのでしょう。

ですから今でも、縄ないとわら草履の作り方は覚えています。

最近古いボロ布を利用して、布の草履が室内履きとして作られ、趣味手芸として人気があると聞きましたが、昔はその材料が稲わらだったのです。

下駄も高下駄と言って、下駄の歯が差し込み式になっていて、磨耗して歯が磨り減ると、新しい歯だけを入れ替え、下駄の板は再度使うことの出来る、リサイクル型になっていました。

ものを大切に再利用する文化の中で、子供の頃育てられましたので、現在の何でも使い捨てる習慣と商品には、なんとなく違和感があります。

それゆえ、なにかのとき必要ではないか、直して使えば使えるなどと、捨てる作業が下手な私は、家でも会社でもゴミの中に埋まっている現状生活です。

究極の貧乏性なのかもしれませんが、何だかモッタイナイとの気持ちが働いてしまいます。

戦中戦後の物の無い時代に育った本性と言うものでしょうか。

今は使い捨て文化の横行で、なんでもゴミとなり、そのゴミまでが輸出され、輸入した国はその中から資源を取り出し、リサイクルして、産業に役立てている報道をテレビで見ましたが、私の子供の頃の日本がリサイクル上手の手本で、それの最たる実行者だったはずです。

今は当たり前のように使い捨ててる洋傘も、昔はこうもり傘と言って貴重な生活用品でした。よく骨が折れ、それを直す商売が成り立っていた時代が、なんとなく懐かしいです。

勿論その頃普段使われていた、竹と紙で出来た番傘、上等な蛇の目傘の直しも同じ傘の直し屋が行っていました。

わたしの母親は、この土地の生まれで豪快な親分肌の性格であったのでしょう、私の家が近所の農家の女たちの溜まり場だった関係で、リサイクルを行う修理屋は、たいがい私の家の庭を仕事場にして、近所に触れを出し集め、修理品を日がな一日直していた光景が今でも忘れません。

こうもり傘の直しから、鍋や釜の孔をふさぐ鋳掛や(いかけや)、瀬戸物(陶器、磁器)の割れを接着させる焼き接ぎ、下駄の歯入れ、包丁やナイフの研ぎ屋、ノコギリの目立て、石臼の目立て、靴の直し、木の樽修繕の竹材を締めなおすたが屋(箍や)、などなど。

その中でも鉄鍋の鋳掛や、瀬戸物の焼き接ぎなど、炭かコークスを真っ赤に熱し、鉱物質の接着剤を溶かす一種異様な臭気を、今でも思い出します。

中学校に入って買ってもらった万年筆が、書きにくかったり、インクが漏れたりしたら、万年筆直しが学校を巡回していて、2度ほど頼んで修理した経験もあります。

現在はほとんどボールペン使用となり、万年筆は使われず机の中で常時眠っている状態ですが、万年筆を持つことが憧れで、また中学生の必需品だった時代がありました。

いずれにしろ修理業の生計が成り立つぐらい、リサイクル需要があったことになります。

私の家はわらぶき(かやぶき)の平屋で典型的な農家造りであり、土間に続く台所に、火焚きをするへっつい(釜戸)があり、材料は石造りで大釜用と、普通の釜、鍋を置く小さなかまどの三段構えで、燃料は基本的には松葉くず(落ち葉)でした。

秋から冬になりますと、農家の主婦たちはこぞって松林に入り、枯れ落ちた松葉くずを熊手でかき集め、大きな竹篭に詰め込んで持ち帰り、燃料小屋にうず高く積み込み、これを何日も何回も繰り返します、これを「くず掻き」と言いました。

わたしも小学校高学年頃から、母親の後について小さめの竹篭を背負わされ、このくず掻きを手伝わされました。

これが一年中の煮炊きの燃料となります。

枯れた松葉は油脂分が含まれ、火力が強く引火が容易で、子供でも火燃しができたくらいです。

屋内にへっついがあることが、藁葺き屋根には大切な条件で、煙が立ち昇り天井から屋根裏にまで届くことが、乾燥と燻し(いぶし)効果をあげ、萱(かや)と藁(わら)と竹を主材で葺いた屋根を、長持ちさせるのです。

へっついの灰は当然、畑の肥料としてリサイクルされます。

同じくず掻きでも、クヌギ、樫、椎、など広葉樹の落ち葉は、堆肥の材料として掻き集め、また芋の苗倉の主要素材にもなりました。

汚い話ですが、便所の糞尿も肥溜めで寝かせ発酵し、肥料として使うことは何の抵抗もありませんでした。

これらすべて自然から頂戴したリサイクル物質で、そのおかげで山の林も下草が無く、綺麗に掃除され、間伐材は薪として重要な燃料でした。

このように自然の恵みを循環させる生活の習慣ができ、農村は貧しいながら工夫がいっぱいでした。

そこには本当の里山生活があり、リサイクル文化が溶け込んでいいました。

それは意識せずに行っていた「モッタイナイ」運動だったのでしょう。

この「モッタイナイ」の心を大事にし、地球の資源も限りがあるので、そろそろ使い捨て文化を見直すときが来たのではないでしょうか。