〜名物旅行添乗員チンちゃんの思い出と現在〜
(人格が変わる認知症のこわさ)
私に「チンちゃん」と呼ぶ、現役時代は旅行社を経営した古い友人がいます、彼は私のことを「オーさん」と呼んで、気の置けない付き合いが、約50年続いた仲です。
このチンちゃんが残念なことに認知症になりました。
この夏の初め、現在福岡市に住む彼を訪ねたとき、私の訪問を大変喜び奥さん同伴で私を夕食に招待して頂きましたが、話す内容がちぐはぐとなり、辻褄が合いません。
「主人はアルツハイマーの前期です」
奥様にに告げられ、納得しましたが何となく寂しさがこみ上げてきました。
というのも、彼とは仕事の視察旅行を含め、何回も一緒にアメリカ、ヨーロッパ、アジア圏の旅をした思い出が沢山ありますし、また65歳すぎてからハワイ島西海岸のコナに居を構え、そこには私も数回訪問しゴルフも楽しんだなど話題にこと欠きません。
それらの記憶をたどっての話を繰り返し数々を語るのですが、その内容が混濁していて私の記憶と違い、返事に困りました。
「認知症」と呼ばれる病状の典型を感じながら、判断力の良さと機転の効くシャープな頭脳は、どこへ行ってしまったんだろう、という寂しさでした。
はじめて彼と会ったのは49年前、私が養鶏業を営んでいたとき、アメリカの養鶏視察旅行があり、それも私が輸入している雛を生産しているH社訪問を目的にしていたので、その企画に参加しました。
その折取引先の商社マンから紹介されたのが彼でした。
彼はこの旅行を企画した旅行代理店の営業マンで、このアメリカ旅行のガイド並びに通訳でした。
この時の互いの年齢は35歳、年齢も同じこともあり、一緒の旅行仲間ということもあって、仲良くなるのも時間がかかりません。
いまから49年前の1966年の話です。
そのころの日本は、敗戦から20年経過し、2年前には東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通もしました。
このように経済発展が飛躍的に拡大し神武景気と言われてた頃ですが、対米ドルに対する為替レートは、1ドルが360円の固定相場でした。
アメリカへの旅行も観光旅行が漸く許され始めたころ、ハワイ6日間のJALパック旅行で、36万円という金額、初任給が2万5000円時代ですから、かなり裕福な人でなければいけません。
「トリスを飲んでハワイへ行こう」こんな洋酒会社の宣伝文句が話題になった時代でした。
私たちは産業視察の勉強ツアーですから、旅券もすぐ取得し、旅行代金はアメリカ2週間の旅で円換算で60万円前後、円建てで国内で支払いましたが、そのころの所得水準から言えば高価な視察でした。
ただしポケットマネーとして持ち出せる手持ち外貨は、アメリカドルで500ドルまでと制限されていた為替管理法がありました。
500ドルは今は6万円ほどですが、そのころの感覚では現在の18万円です。
アメリカ10日間の旅行としては寂しく、もちろんクレジットカードの存在すらなかった旅行者にとって、闇市場でヤミドルを調達して用心のため余分に持って行ったものです。
アメリカはベトナム戦争の泥沼に引き込まれ、5年が経過し戦線は拡大しつつあるが、勝利にはほど遠くその戦費がアメリカ経済をむしばみ始めようとしていた頃です。
しかし訪れたアメリカ社会は、表面的にはまだ経済も社会も豊かさを保っていました。
私たちはアラスカ、バンクーバー経由でシアトルに入り、シアトル近郊の養鶏農場を手始めに、シカゴの養鶏展示会、アーカンソーリトルロック近くの孵化場、ワシントンDCから、ペンシルバニア州のランカスターのブロイラーインテグレ−ター、そうしてニューヨーク経由でニューハンプシャー州の片田舎にある、今回の訪問目的地の育種農場H社へと巡回しました。
ここに至るまでに、田舎者の10名の訪問団は、初めてのアメリカ旅行で勝手がわからず、珍談奇談の連続でした。(これらの物語は別の機会に紹介しましょう)
それを上手にまとめあげ、恙無く訪問目的の第一番のH社に連れてきたのもチンちゃんの手腕でした。
各訪問先の養鶏関係の農場や施設または屠場や孵化場は、このH社の子会社や関連会社などで、日本からの訪問使節団は珍しく、各地で歓迎され親切な案内とパーティーと夕食会の連続で、身体も胃腸もいささか疲れもしました。
到着したH社の育種農場のあるニューハンプシャー州のウォルポールは秋真っ盛り、美しい紅葉が澄んだ吸気の中彩りをさらに輝かせていました。
メープルシロップを採取するカエデの赤く染まった木々が点在し、生まれてはじめてメープルシロップとの対面もこの訪問でした。
遠い日本からのお客さん一行の到来ということで、H社の歓待も今までに勝るもので、これらの通訳もすべてチンちゃんが行っていました。
そのころは上手に通訳をしていると思いましたが、その後私も独学で若干英語に親しみ、チンちゃんにその時の会話内容を聞いたとき「わからない専門用語の連続で、ほとんど感で適当に話しました」とのこと、しかし日本の訪問団に気付かれなっかたのは、彼の臨機応変の要領の良さの現れです。
とにかく個性的な名物添乗員でした。
それほどシャープな頭脳の持ち主が、認知症という治りにくい病魔に侵され、昔の冴えた行動と判断力が失われ、話す内容のちぐはぐさを見て、この病気の複雑さを知ります。
私は夏の終わり、彼の生まれ故郷、長崎県の壱岐の島で再度面会をしました。
彼の奥さんも同じ壱岐の島出身、2人そろってよく帰郷をしているので、その折私に訪問してほしいと、何年も前からの誘われ、その約束を漸く果たした訪問でした。
「おれがオーさんを案内する」と活き込んでいた彼でしたが、昼食に少しアルコールが入っただけで「眠い」と座をはずし「いつもこうなのです」と奥さんの言葉によると病気症状の一端のようでした。
気持ちの中では訪問した私への歓待の意識は十分あるのですが、それが断片的に途切れるのか、腦細胞がその気持ちと行動を同一にさせないのか、昔の冴えた判断力で行動をした彼を知るだけに、私にとっては見ていてつらい気持ちです。
そんな彼を奥さんは「はい分かりました、無理しないでね」と決して彼の行動を束縛しません。
矛盾だらけの会話と動作に無理なく反応する姿を見て、この介護があって現在の彼の幸福度を垣間見ることが出来ました。
日本旅館に一緒に宿をとり、大きな風呂で彼と二人だけで入浴もし、その時はまことに正常で昔のチンちゃんと変わりなかったですが、ところが洗い場で何回も同じように体を洗うのを見て正常の中に異常を見る思いで「そろそろ出ようか」無理やり入浴を止めさせたほどです。
夕食をともにしながら、49年前のアメリカ旅行の思い出を話し合いましたが、時には私が忘れかけたような出来事を鮮明に記憶し、詳細を語ります。
と思うと急に、別の機会に訪問した韓国の話に飛んでしまい、私を戸惑わせます。
本来、アルコールは好きな方で、会話中焼酎の水割りを何杯も飲むので「少し飲みすぎですよ」と注意されると「オーさんと飲むのがうれしくて」と私との再会を強調して私を喜ばせます。
ただその酒席も長く続かず、「疲れた」と言って退席します。
同じ状態を持続することが苦手のようで「いつも自分勝手なの」と奥さんに言わせるような、それが日常の生活態度のようでした。
翌朝帰る私に「もう帰ってしまうのか」と残念がり「会えてうれしかった、またすぐ来てくれ、頼むよ」と別れを惜しむ彼を見ていて、この病気の複雑さと名状しがたい違和感を持つのも私だけでしょうか。
人間としての存在感と個性が失われ、人格が喪失してしまうようなこの認知症という病気を見るとき、どうしても憐憫の情が湧いてきます。
しかし、昔にチンちゃんを知るだけに、もう一度心から楽しいお酒を酌み交わしたいと思いました。
あとはただ、奥さん看護の適切さを得て、回復することを祈るだけですが、回復しないまでも病気が進行しないで、現状のままで元気でいることを願います。
こんな彼との思い出と健康を祈っているこの原稿を書いている今日、もう一人の認知症を患っていた友人の訃報の便りを、未亡人から頂戴しました。
認知症と認定されてから3年目でした。
認知症は死の病気ではないが、認知になったことで人間の本性、生きるという本質的なバイタリティーが失われるのか、まだ元気でいるものと思っていただけにショックでした。
最近この病気の話題を耳にすることが多くなりました。
平均寿命が延びたことが認知症患者を多く輩出しているのか、生活する環境と仕事の複雑さと疲れがそうさせるのか、私にはわかりませんが、たまたま私の知る友人たちは、仕事の第一線を退くと間もなくこの病気を発症しているケースが多いだけに、考えさせられます。
やがて近いうち迎える超高齢者社会、この病気が当たり前で珍しくなく、同病者同士が同じ施設で楽しみながら人生の終末を迎える社会になるかもしれません。